心を整える
こちらはサービスページです。あなたのサービスについて紹介し、必要な情報を提供するのにぴったりの場所です。テキストボックスをダブルクリックしてコンテンツを編集し、サイト訪問者に伝えたい情報を含めるようにしてください。
1「心を整える」ための座学
【無常を知り、中道の生き方を知ったならば、慈悲の心を持って生きよ】仏教より
「心」と「所作」は、深い関わりがあります。
また「心を整える」よりも「所作を整える」ほうが難しくないので、私は「まずは所作から」を市川うららFMラジオ【志富のOHGI】で、伝えています。
この一年半こちらに「所作の心得」を投稿してきましたが、今年は「心を整える」「心の在り方」を同時にお伝えしたいと思います。
「心の在り方」をお伝えするに辺り、私は、禅の言葉などを使っております。
私達日本人にとって極めて身近な仏教から引用したいと思います。
追伸
新しい試みを致します。
文献等、参考にはしておりますが、極めて私の主観が入りますので、内容に「?」と思うところがございましたら、是非ご指導くださいませ。
2【心を整える - 無常-】
【無常を知り、中道の生き方を知ったならば、慈悲の心を持って生きよ】仏教より
無常とは?
人間は生きているとどうしても
「永遠に若いままでいたい」
「地位や富を失いたくない」
「変わりたくない」
などという気持ちがあります。
しかし、世の中のすべてのものは
変わっていくもの
失ってしまうこともある。
うつろいゆく運命にある!
これが『諸行無常』という意味です。
自分が地位や財産を失う日がくるかもしれない!
という考えを持つということで
「私たちはどうあるべきか?」
問いが生まれます。
3【心を整える - 中道-】
【無常を知り、中道の生き方を知ったならば、慈悲の心を持って生きよ】仏教より
中道とは?
多くの方が真ん中という捉え方をしますが
真ん中ではございません。
AーB間の真ん中を指す言葉は「中康」です。
中道とは「両極端な考え方や行動は避ける」
としてその場その場で
“ベストな選択” をすれば良しと説いています。
がむしゃらに一生懸命すれば良いというものではないということ!
「楽をしすぎず、無理をしすぎないこと」
うつろいゆく運命を受け入れ
“中道” の生き方を志すようになろう!
そして私達は次に何をすべきであろうか?
4【心を整える - 慈悲-】
【無常を知り、中道の生き方を知ったならば、慈悲の心を持って生きよ】仏教より
慈悲とは?
”いつくしみあわれむ” とあります。
また、二つの意味もあります。
・他の人に対して「楽」を与え、「苦」を取り除くことを望む心の働き。
・「慈」は「友情」、「悲」は「同情」
(サンスクリット語より)
人の苦しみや悲しみに深く同情するということです。
『うつろいゆく運命を受け入れ
「楽」をしすぎず「無理」をしすぎない生き方を
知ったならば、慈悲の心をもって生きよ』
私はこのような「心の在り方」になりたいと
これからつづっていくことによって
「心が整う」と思っております。
では私達はこのような「心の在り方」になるには
どうしたらよいのでしょうか?
5【心を整える 】
【無常を知り、中道の生き方を知ったならば、慈悲の心を持って生きよ】仏教より
「美味しいものを食べたい」
「美しい男性と過ごしたい」
「高い地位につきたい」
「名を残したい」
こういう欲望は、すべて偏った心から生じはじめたものです。
不必要な欲望にとらわれることのなくなった人間は、他人から感謝されたとき、けがれのない笑顔を見せます。
そして、私達はそのような笑顔に出会ったとき
無上の喜びを感じ、その人に惹きつけられるのではないでしょうか?
6【心を整える 】
仏教をひらいた釈尊は自分のあれこれ
悩みつつ生きた経験から
「無常」「中道」「慈悲」
といった考えを説いています。
『うつろいゆく運命を受け入れ
楽をしすぎず、無理をしすぎない生き方を
知ったならば、人の苦しみや悲しみに深く同情し
いつくしみあわれむ心をもって行動する』
私達はどうしたらこのような
「心の在り方」になるのでしょうか?
ー第2章ー
1【心を整える】ー第2章①ー
【無常を知り、中道の生き方を知ったならば、慈悲の心を持って生きよ】仏教より
『時の流れがあらゆるものを”中道”になおしてゆく』
時の流れの途中にさまざまな
”けがれたもの”があっても
やがて、川の流れのように清められて
大きな海に流れ込んでゆくように!
長いめでみなければ、
人間の小さな悪業などはつまらぬもの
そう考えると私達は目先の損得や怒りにとらわれず、毎日を心おだやかに過ごせるものではないだろうか?
2【心を整える】ー第2章②ー
【無常を知り、中道の生き方を知ったならば、慈悲の心を持って生きよ】仏教より
ー「四門出遊(しもんしゅつゆう)」の物語 ー
釈迦(若きブッダ)が宮殿の東西南北の4つの門から出かけたとき、さまざまな者に出会う!
東門では老人、
南門では病人、
西門では死人であった。
これによって彼は
「老」「病」「死」の苦しみを知った。
北門で修行僧に出会った。
貧しかったが穏やかで、満ち足りた表情であった。
彼は問う!
「凡人は老・病・死を悩み恥じ嫌悪するのだろう?」
その後すぐ王子の暮らしを捨て家出をする。
私達は「老」「病」「死」をおそれ、悩み、苦しむのだろうか?
3【心を整える】ー第2章③ー
【無常を知り、中道の生き方を知ったならば、慈悲の心を持って生きよ】仏教より
中道思想とは
極端な快楽(主義)は卑しく
その反対の行きすぎた苦行は無益である。
その両方にかたよらず、
真実の道をみつけること!は、
相反するものの中ほどといった
安易なものではなく
自分で迷いながら課さなければならないという!
私達は、どのような迷いをもているのか
理解しているだろうか?
4【心を整える】ー第2章④ー
【無常を知り、中道の生き方を知ったならば、慈悲の心を持って生きよ】仏教より
「人間の持って生まれた迷い」とは?
〈四苦八苦〉である。
⚪︎生・老・病・死
⚪︎愛別離苦(あいべつりく)
⚪︎怨憎会苦(おんぞうえく)
⚪︎求不得苦(ぐふとっく)
⚪︎五蘊盛苦(ごうんしょうく)
漢字をみて、なんとなくわかるでしょう。
私は、最後の五蘊盛苦がわからず調べました。
「自分の心や、自分の身体すら思い通りにならない苦しみ」
アスリートの苦しみは
尋常ではないかと想像できます。
私達はこの迷いから
どう克服したらよいのでしょうか?
5【心を整える】ー第2章⑤ー
【無常を知り、中道の生き方を知ったならば、慈悲の心を持って生きよ】仏教より
「迷いにとらわれない方法」は
『苦諦→集諦→減諦→道諦』です。
どういうことかと言いますと
⚪︎人生が苦しみに満ちていることを悟る
→⚪︎その苦しみの原因があることを知る
(人生苦にも必ず原因があることを悟る)
→⚪︎苦しみのもとの執着を捨てる
→⚪︎すべてにおいて執着のない正しい道を歩む(行う)
〈四聖諦〉(ししょうたい)
「正しい道」とは何であろうか?
6【心を整える】ー第2章⑥ー
【無常を知り、中道の生き方を知ったならば、慈悲の心を持って生きよ】仏教より
「迷いにとらわれない方法」は
昨日投稿いたしました。
では、どのような行いをしたらよいのでしょうか?
〈八正道〉(はっしょうどう)
「正見」:正しいものの見方をすること
「正思惟」:正しい認識をもつこと
「正語」:正しい言葉を用いること
「正業」:正しい行為を行うこと
「正命」:正しい生活を営むこと
「正精進」:正しい努力をすること
「正念」:正しい反省をすること
「正定」:正しい精神統一を行うこと
私が学び師事し、伝えてきた
「日本伝統文化の真髄」
「日本礼儀作法の根源」
が集約されております。
市川うららFMラジオ『志富のOHGI』のテーマ
「まずは所作から」「モテ方よりモテ型」
で放送しております。
ー第3章ー
1【心を整える】ー第3章①ー
「苦しみの原因とは何?」
人間を悩ます煩悩の数を
百八つとも、八万四千ともいわれています。
それらは大きく3つの「心のかたより」から生じる。
「貪欲」:むさぼること
”満足することを知らず、際限なく欲求を拡大させること”
「瞋恚(しんに)」:怒ること
”冷静な判断ができなくなり、周りの人間がすべて敵に見えてくること”
「愚痴」:※不平を言うグチとは違う!
ものの道理を知ろうとしないこと。
”正しいふるまいをすると損をすると思い、自分の利益になる知識のみつめこみ、自分は賢いと思い上がること”
追伸
このような仏教用語が続きますが
ある一定の宗教を信仰しているわけではございません!
日本文化芸能にたずさわるものとしての
雑学の一環と思って下さいませ。
2【心を整える】ー第3章②ー
「自分はどのような人間ですか?」
○「欲に取りつかれた者」は他人を踏みつけて利益を得ようとする。
○「怒りをおさえられない者」はだれかれかまわずそれをぶつけ、人の和を乱す。
○「正しい道理を学ぼうとしない者」は知らないうちにあやまちを犯してしまう。
すなわち「貪欲」「瞋恚(しんに)」「愚痴」
人間を悩ます煩悩とは、
大きく3つの心のからよりから生じると説いています。
3【心を整える】ー第3章③ー
「仏教の慈悲とは?」
『煩悩にとりつかれた者を罰したり、見放したりしてはならない。
自分の心の中に煩悩があることを気づかせてあげるだけでよい。
それを知ることが煩悩にうちかって、他の人を思いやる知恵を身に付ける第1歩だからだ』
置き換えてみました!
「仕事の遅い者、ミスをする者、態度の悪い者etc
このような部下(社員)をしかったり、見放したりしないで
彼らに足りないもの、劣っているところを
気づかせてあげるだけでよい。
それを自ら知ることが始まりで
自らの強みとなっていくきっかけだから。」
「どう気づかせるのでしょうか?」
自らも修行中なので、この問いが出てしまいました。(苦笑)
4【心を整える】ー第3章④ー
「慈悲の心とは?」
世の中には「欲の深い者」「怒りっぽい者」
「知識をひけらかす者」また、
その「真逆な者」がいます。
そういった短所をもつ者にも愛すべき面があります。
私達、煩悩をもつ者は、それと向き合い静めていくことで
「心を整える」ことができるのではないでしょうか。
『うつろいゆく運命を受け入れ、楽をしすぎず
無理をしすぎない生き方を知り、人の苦しみ・悲しみに寄り添える心と慈しみの心を持って行動する』
5【心を整える】ー第3章⑤ー
「赤ちゃん!!」
『何ものにもとらわれず、定まらず、色を持たず、いわゆるかたよった私心を持たない人は
明らかに人から見たら超然とした存在です。』
このような存在はそれを見るまわりの者を
温かい気持ちにさせてくれます。
ふと、私は「赤ちゃん(幼な子)」を思い浮かべました。
6【心を整える】ー第3章⑥ー
「まとめ」
現実のあらゆる行いや形あるものは
常に流動・変化しつづけ、一瞬といえども
同じところにとどまるものではない。
(という真理)
すべてのものは因縁によって生じたのであって
他人や多くの自然物がいてこそ自分がいる。
(という真理)
かたよった煩悩から離れて
迷いや苦しみのない心の状態
これを「心が整う」というのではなかろうか。
【肩の力を抜く方法】ー序章ー
”心を整える所作”
ー禅語よりー
「平常心是道」(びょうじょうしんこれどう)
”どんな状況にあっても、あわてずにバタバタせず
正面から受けとめる。
周りの状況にふりまわされない安らかな心で
「丁寧」に「一生懸命」に生きること”
それには・・・
「脚下照顧」(きゃっかしょうこ)
自分の足元を見つめなおすこと。
○自分が歩んでいる歩幅は無理がないか?
○歩みをすすめる速度は適切なものか?
○足を踏み出す方向性は間違っていないか?
このように考えて、行動できたのなら
前行く人を追いかけようと焦ったり
自分に迫ってくる人の姿にあわてたり
周囲に惑わされたりせず
心を落ち着けて「自分らしい」一歩一歩を
歩めるのではないだろうか?
たやすいことではございませんが
禅の教えを実践することによって
必ず「心が整います」
一緒に学んでいきましょう。
第1章【走らない!ーゆったり生きるための所作ー】①②
①廊下を走ってはいけません。
「身心ー如」:身体の動作が心をざわざわと騒がせたり
焦らせたりするのです。
また、心が騒いだり、焦ったりしていると
走るという身体の動きとなってあらわれてしまうのです。
「走らない所作」に込められたものとは
”静かに心を整えている”ことなのです。
②ゆっくり動く
「忙しい」という字は「忄=心」と「亡」
心を亡くすということ。
あわただしく、忙しく動いているときは
心が忘れられない、何をするにも心が入っていない。
コーヒー1杯、企画書1枚作成しても心あらずでは
おいしくも、人を感動させることもできません。
すべてが粗末なものになります。
「行住坐臥」(ぎょうじゅうざが)
歩く、とどまる、坐る、寝る
すべての立ち居振る舞い、動き一つ一つが修行であると禅は言う。
「能」の動きを思い出してください。
心をのせた動きの”真骨頂”を表現しています。
第1章【走らない!ーゆったり生きるための所作ー】③
③自分の足元を見つめなさい
「履き物を揃えるか、揃えないか」ということで
実は心がそのまま映し出されていることをご存知ですか?
足元を見つめるということは、その瞬間に自分が
やるべきことを見定め、正しく把握するということ。
履き物を脱いだ瞬間にやるべきことは
当然、揃えることではないでしょうか?
「急いでいるから、面倒だから、奥さんがきれいにするから」
と脱ぎっぱなしにするのは
「自分のやるべきことがわからないから行動できない」
ことにはなりません。
なかには、履き物にはズボラだが、他の大切なことはしっかりとやるという人がいるかもしれません。
しかし ”生きる” ということは
そう都合よくいかないのです。
人生は瞬間瞬間の積み重ね!
ゆがんだ取り組み、考え方、向き合い方をしたら
ゆがんだ人生が紡がれていくと禅では説いております。
どんなときでも、脱いだ履き物はきちんと揃える
「脚下照顧」です。
第1章【走らない!ーゆったり生きるための所作ー】④
④見えないところほど手をかける
できるビジネスマンは常に靴が磨かれている
とよく言われます。
昔から「足元を見る」という言葉があります。
江戸商人は草履や下駄の手入れが行き届いていれば
「隅々まで心配りができている人物」
だから、お金を貸しても大丈夫
という判断基準が今に根付いているのではないでしょうか?
昔は足元は視線から届きにくく、見えにくい部分なのですが
実は人物判断の決め手になっていたのです。
また足元は履き物だけではありません。
だらしない足の置き方で立っていたり
貧乏ゆすりや、足を小刻みに動かしたり
足元がだらしない。
足元にも気配りができるあなたは
心の置き方も落ち着いて心豊かな人でしょう。
第1章【走らない!ーゆったり生きるための所作ー】⑤
⑤ゆっくり歩くとまわりが見える
現代人は ”とにかく歩くのが速い”
足早に歩くと周囲が見えません。
ちょうど動画を倍速にしているようなもの。
一応目にははいるが感性にはいたらない。
ゆっくり歩くと周囲が見え
感性が働き始め、自然が感じられます。
自然を感じると生きている実感をヒシヒシと感じる。
すると生きることのよろこび、幸せが心の底から
湧き上がってきます。
自然が伝えてくれるものをあるがままに
受け入れる人は、心が整っている人です。
第1章【走らない!ーゆったり生きるための所作ー】⑥
⑥丁寧にいただく
「いただきます。」は何をいただくのでしょうか?
肉・魚はもちろん、野菜や果物・・・
それは「命」をいただいています。
私たちはほかの命をいただいて生きている。
いえ、生かされているのです。
「命をいただく基本的な作法」は
感謝を込め、余計なことを考えず丁寧に一生懸命に
そして楽しんで食べる。
その心持ちでいたら、
箸運びも自然にゆっくりとしたものになります。
【あわてずゆっくり仕事をするための締切り】
「苦しみの原因とは何?」
人間を悩ます煩悩の数を
百八つとも、八万四千ともいわれています。
それらは大きく3つの「心のかたより」から生じる。
「貪欲」:むさぼること
”満足することを知らず、際限なく欲求を拡大させること”
「瞋恚(しんに)」:怒ること
”冷静な判断ができなくなり、周りの人間がすべて敵に見えてくること”
「愚痴」:※不平を言うグチとは違う!
ものの道理を知ろうとしないこと。
”正しいふるまいをすると損をすると思い、自分の利益になる知識のみつめこみ、自分は賢いと思い上がること”
追伸
このような仏教用語が続きますが
ある一定の宗教を信仰しているわけではございません!
日本文化芸能にたずさわるものとしての
雑学の一環と思って下さいませ。
【日本人だからこそできる先への手の打ち方】
「自分はどのような人間ですか?」
○「欲に取りつかれた者」は他人を踏みつけて利益を得ようとする。
○「怒りをおさえられない者」はだれかれかまわずそれをぶつけ、人の和を乱す。
○「正しい道理を学ぼうとしない者」は知らないうちにあやまちを犯してしまう。
すなわち「貪欲」「瞋恚(しんに)」「愚痴」
人間を悩ます煩悩とは、
大きく3つの心のからよりから生じると説いています。
【内なるライバル心とは】
「仏教の慈悲とは?」
『煩悩にとりつかれた者を罰したり、見放したりしてはならない。
自分の心の中に煩悩があることを気づかせてあげるだけでよい。
それを知ることが煩悩にうちかって、他の人を思いやる知恵を身に付ける第1歩だからだ』
置き換えてみました!
「仕事の遅い者、ミスをする者、態度の悪い者etc
このような部下(社員)をしかったり、見放したりしないで
彼らに足りないもの、劣っているところを
気づかせてあげるだけでよい。
それを自ら知ることが始まりで
自らの強みとなっていくきっかけだから。」
「どう気づかせるのでしょうか?」
自らも修行中なので、この問いが出てしまいました。(苦笑)
【ライバル心など所詮幻のようなもの】
「慈悲の心とは?」
世の中には「欲の深い者」「怒りっぽい者」
「知識をひけらかす者」また、
その「真逆な者」がいます。
そういった短所をもつ者にも愛すべき面があります。
私達、煩悩をもつ者は、それと向き合い静めていくことで
「心を整える」ことができるのではないでしょうか。
『うつろいゆく運命を受け入れ、楽をしすぎず
無理をしすぎない生き方を知り、人の苦しみ・悲しみに寄り添える心と慈しみの心を持って行動する』
【成功のヒントを見出す方法】
「赤ちゃん!!」
『何ものにもとらわれず、定まらず、色を持たず、いわゆるかたよった私心を持たない人は
明らかに人から見たら超然とした存在です。』
このような存在はそれを見るまわりの者を
温かい気持ちにさせてくれます。
ふと、私は「赤ちゃん(幼な子)」を思い浮かべました。
【渡る世間が生涯続いていくことを忘れない!】
「まとめ」
現実のあらゆる行いや形あるものは
常に流動・変化しつづけ、一瞬といえども
同じところにとどまるものではない。
(という真理)
すべてのものは因縁によって生じたのであって
他人や多くの自然物がいてこそ自分がいる。
(という真理)
かたよった煩悩から離れて
迷いや苦しみのない心の状態
これを「心が整う」というのではなかろうか。
第1章【走らない!ーゆったり生きるための所作ー】⑦
⑦精進料理の意味を毎日に活かす
禅の修行僧の食事を「精進料理」と言います。
「目鼻口のあるものはいただかない」
しかし野菜も果物も命あるものと考えているが
これらは根を残しているので再生して命が
つながれているということ。
修行中の食事はとても質素です。
3ヶ月は空腹で修行僧はみんな数キロ
いや、10キロ以上やせるそうです。
しかし、3つの効果が出るそうです。
①空腹で頭が冴える
②色白で透けるような肌になる
③心がおちつき集中力が高まる
みなさんも野菜料理をつくって、じっくりとかみしめ、心を整えましょう。
第1章【走らない!ーゆったり生きるための所作ー】⑧
⑧ゆっくり会話する、じっくり話を聞く
現代の会話は ”会話が途切れない” ことに
注目がいきすぎていると思います。
沈黙に対する不安があるのでしょうか?
自分の喋りたいことを一方的にしゃべり
しゃべり終えたら、今度は相手がしゃべり出す。
その間自分は休けい又は次のしゃべることを
考えている。
これでは話が噛み合うはずがありませんね。
禅語「面授」
相手ときちんと向き合い、伝えたい想いを伝える。
相手の心を受けとる。
※言葉を思いつくまま連ねるのではなく
自分の想いを伝えるのに
どんな言葉がふさわしいか
それを選びながらゆっくり語る。
相手の心にひびいていれば絶妙な「間」ができ、
会話の密度を高める。
相手の聞く態度もさらに整うことでしょう。
第1章【走らない!ーゆったり生きるための所作ー】⑨
⑨ときには立ち止まってもいい
いつも「先に、先に」「前に、前に」だと疲れませんか?
立ち止まり、振り返る時間も必要なのではないでしょうか?
「一日一止」という言葉があります。
「一」と「止」を組み合わせると「正」しい
という字になります。
つまり、生きていくうえで立ち止まることは正しいのだ。
と、この言葉は教えています。
また「七走一坐」があります。
走りっぱなしはものごとが見えなくなります。
七回走ったら静かに坐って、走り方は正しいのか?
ペース配分はこれでよいのか?
方向は間違っていないか、ということを
見直しなさいとうい禅語です。
第1章【走らない!ーゆったり生きるための所作ー】⑩
⑩ときには走る
「三昧」という仏語をご存知ですか?
ゴルフ三昧、すしざんまい?読書三昧
「雑念を取り払って一心にひとつのことに集中・没頭すること」
現在、無心で何かに取り組むことが少ないのではないでしょうか?
無心とは何ものにもとらわれない自由な心
心の中の雑念がはなれ、
心が空っぽになっていく境地
私は踊りのお稽古三昧で無心になります。
第1章【走らない!ーゆったり生きるための所作ー】11
11. 無心で坐る
マインドフルネス、瞑想など、今でも耳にいたします。
もとは「無心で坐る→坐禅」からきたものです。
やったことがある方はわかると思いますが
やたらいろいろな思いが浮かんできます。
「考えてはいけない」と思えば思うほど
とらわれていってしまいます。
よい方法は
「放っておけばよい」
静かな水面に小石を投げ込むと波紋ができます。
それを止めようと手を出すとまた別な波紋が生まれます。
何もせず放っておけば自然に消えます。
心も、水面のようなものではないでしょうか。
自然にまかせていればよいのではないでしょうか。
第1章【走らない!ーゆったり生きるための所作ー】12
12. 寝る前30分の過ごし方
医療機器メーカー オムロンが手がける
「ねむりラボ」プロジェクト
被験者のほとんどが6時間中2時間以下の睡眠効率35%以下と、
”ぐっすり”眠っていないことがわかりました。
修行中の禅僧は「夜坐」
寝る前に坐禅をして心穏やかになってから眠りにつく。
自分にとっての夜坐を見つけましょう。
音楽を聞く、お風呂でリラックスする、
本をよむ、香をたく(アロマ)など。
ポイントはそれをすることで
「癒される」「気持ちがおちつく」ということですね。